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ロシアから見た日ロ経済関係の展望(浜野道博)

ロシアから見た日ロ経済関係の展望
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独立非営利法人
貿易経済交流発展のための日本センター
所長 浜野 道博

 日本機械輸出組合では、2017年3月10日に部会講演会を日本ユーラシア協会と共同で開催し、独立非営利法人「貿易経済交流発展のための日本センター」(ロシア)所長 浜野道博氏より「ロシアから見た日ロ経済関係の展望」についてご講演をいただきました。
 本稿は日本機械輸出組合が同講演の内容を取りまとめ、講師の校閲を得て掲載するものです。本講演録は日本機械輸出組合JMCジャーナル(WEB版)2017年4月号に掲載されたものです。

1.日ロの8項目協力プラン
日ロ間では今8項目協力プランというものが挙がっている。昨年5月にロシアのソチで安倍首相とプーチン大統領の首脳会談の際に、日本側から提案したもので、プーチン大統領が「これは大変いい提案である」ということになり、日ロ協力に関する対話のベースになっている。最近この1~8番のテーマに沿って、それぞれの関係省庁の要人往訪が非常に盛んである。この8項目を一覧として挙げた(図表1)。ただ、これらは別に目新しいものではない。過去数十年、両国の官民組織が努力して両国の関係を改善しようとしてきた中で積み上げられてきたテーマである。

図表1 日ロの8項目協力プラン

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 2.日本センターについて
 日本センターは日本とロシアの貿易経済交流拡大、強化のための事業を行うことが目的の組織である。もともとは支援委員会という、ソ連が崩壊したあと日本政府がロシアおよびCIS諸国への技術支援を目的に作った国際機関があり、そこが1994年に最初の日本センターを作った。この支援委員会に対し日本政府が資金を提供して旧ソ連圏諸国に対する支援事業を行っていたが、その一つとして社会主義経済から市場経済への移行及びそれに伴う経済改革を支援する目的で作られたのが日本センターである。
 その当時から今日に至るまで日本センターの行っていることは基本的に変わりがないが、途中世紀の変わり目で支援委員会が廃止されることになったため、CIS諸国で発展途上国と見なされる国々にある日本センターはすべて国際協力機構(JICA)に移管することになり、今もまだウズベキスタンやキルギスにはJICAが所管する日本センターが活動している。
 一方、ロシアにあった日本センターは当時モスクワに1カ所と極東地域に3カ所あったが、これを国際機関からロシアのNPO法人に変えて、その活動資金として外務省が日本政府の予算をあてがうことになり再スタートしたのが2001年である。
 私が今いるモスクワ大学の中にある日本センターは、2000年に日本政府が建設しロシア政府に寄贈した3階建ての建物である。その1階部分のフロアを私どもが占有しており、モスクワ日本センターと称しほかのロシア国内の5つのセンターを統合した本部としても機能している。現在6センターを合わせると日本人とロシア人の常勤職員、パート、アウトソーシングも含めて60名以上の職員がいる。
 事業の柱は研修事業、ビジネスマッチング、日本語事業で、ロシアのビジネスマンに日本のビジネスを紹介することが当初から大きな柱である。今でも年間300名近くのロシア人ビジネスマンをテーマに沿って日本に派遣し、日本のビジネスの現場を直接見ていただく訪日研修事業を行っている。
 このほか、ロシア国内の多数の都市で様々なテーマによるビジネスセミナーを開催している。昨年はそのようなセミナーをロシアの37都市で86回行った。受講生の総数は5,000名にもなった。一方、訪日研修は、過去からの累積で5,000名近いロシアのビジネスマンを日本に派遣している。そうした方々が10~15年経っても、ロシア各地で日ロ貿易や経済交流に対して熱い思いを持って協力し、ビジネスマッチングでもいろいろ成果が出ている。ただ、日ロ間の経済関係はまだまだこれからという段階なので、関係方面のお知恵を拝借しながら、旺盛に事業を展開していきたいと思っている。
 ロシアにおける日本センターの配置だが、欧露部(ヨーロッパ・ロシア部)にはモスクワ、サンクト・ペテルブルク、ニジニ・ノヴゴロドの3カ所がある。ニジニ・ノヴゴロドは由緒ある歴史に彩られた町である。あとは極東地域3カ所(ハバロフスク、ウラジオストック、ユジノ・サハリンスク)にある。実はシベリア地域はすっぽり抜けており、ぜひシベリアにもう1つ日本センターをという声をしばしば聞くが、まだそこまでは至っていない。とりあえずシベリア地域はモスクワセンターがカバーしている。


3.日ロ外交の160年
 日ロ関係の始まりは、17世紀ごろから日本の漁夫や水夫がカムチャツカやアリューシャン列島に流されて、その一部がイルクーツクやサンクト・ペテルブルクに連れていかれたという話を聞かれたことがあると思う。その中で一番有名なのは大黒屋光太夫である。しかし両国が外交関係を樹立するのはずっと後の1858年の安政の五か国条約である。事後桜田門外の変で井伊直弼が殺された時代である。日本はまず5カ国にいくつかの港を開港する。そのことによって外国が入ってくる。最初の5カ国とはロシア、イギリス、フランス、オランダ、アメリカである。
 160年前の1858年に日本が開国した5つの相手国の中で、二国間関係で一番遅れているのは残念ながら日ロである。それはなぜなのか。日ロが一衣帯水の隣国だからである。ヨーロッパの例を見ても隣国同士は仲が悪い。私が学生のとき、日本にとって一番仲が悪かったのは韓国だった。近くて遠い国と言うとすぐ韓国が挙がったものである。
 世界のどこの地域でも、直近の100年、200年の歴史を見ると、隣国同士で領土をめぐる紛争で対立し戦争をしている。日本とロシアの関係も例外ではなく、この160年間に何度か戦火を開いている。日本は明治維新と1945年の敗戦を踏まえて2度新しい国に生まれ変わり今日に至っている。ロシアも国の体制が2回変わっている。ロマノフ王朝のロシア帝国は1917年に倒れるまで続いた。それからボリシェヴィキが政権をとり1924年にソビエト連邦が成立するが、1991年12月に崩壊し、今日のロシア連邦に引き継がれている。74年間、この広大な地域に社会主義と称する体制が存在した。私もソビエト連邦で6年以上駐在員生活をしたが今となっては貴重な体験である。
 1991年に現在のいわゆる市場経済のロシア連邦に生まれ変わったわけだが、崩壊当時ソビエト連邦を構成していた15の国のうち、最初にバルト三国が分かれていった。それから中央アジア、コーカサスの国も独立したので、現在のロシア連邦の領土はロシア帝国やソビエト連邦の領土より一挙に縮小し、こういう国境線を持った国も歴史的に初めて生まれた。それでも1億4,700万の人口を持つ世界一広大な国であることには違いなく、この国が私どもの隣国であるということを重く受け止めて、これからどのように国家関係を築いていくか、特に私どもの仕事である貿易経済関係をどういう切り口から拡大していくかを考えていきたいと思う。
 図表2では日ロ国家関係の160年で何が起きたかがわかるように示した。下に引いた線は外交関係で、切れているところは戦争のために国交を断絶した時期である。こうやって見ると、ソ連が日ソ不可侵条約を背信的に破って満州に侵攻してから11年という比較的長い期間、国交関係が断絶していたほかはおおむね160年間、国と国の関係は細々ながらも続いていた。
 その下にグラフが書いてあるが、これは一般的に両国関係の熱意が高まったり静まったり冷めた様子を主観的に表したものである。1858年に国交が樹立されて以降19世紀末まで特段大きな事件もなく、日ロ関係はわりと平穏であった。北東アジアをめぐる諸外国、特にロシア、イギリス、アメリカによる帝国主義的な権益をめぐる争いは激しく動いていたが、日ロ関係が衝突するまでには至らなかった。

図表2 日ロ外交の160年

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 このあたりの時期に関してぜひお読みいただきたいのは榎本武揚の日記である。榎本武揚は函館の五稜郭で最後まで官軍に抵抗し、そのため敗れたあと2年半牢屋に放り込まれた。しかし大変優秀な人物であったので敵将黒田清隆に拾われて、明治政府の役人になり、華族にまで列せられた人である。幕末に蘭学を学び、オランダ語が非常によくできた。オランダに行って造船学も学んでいる。『榎本武揚シベリア日記』という文庫本が出版されている。1874年から1878年の駐露特命全権公使であったが、1878年に任務を終えて帰るとき、ぜひロシアという国の隅々を見てみたいと一念発起し、ロシアの西の端から東の端まで一気に駆け抜けた。その当時はもちろんシベリア鉄道は開通していない。サンクト・ペテルブルクからモスクワまでと、モスクワからニジニ・ノヴゴロドまで鉄道が通じていたが、そこから先は馬車に乗って延々と走り抜ける。それが『榎本武揚シベリア日記』に生き生きと描かれており、シベリアに何があるか、誰と会った、どういう美人がいたということも克明に書かれている。日本がロシアという国を知るために率先して情報収集をした。それが今日の我々のロシア観を豊かにしてくれている。
 その14年後には福島安正少佐のシベリア単騎横断がある。福島安正はベルリン公使館に駐在し任期を終えて帰るときに、シベリアを馬に乗って横断した。先の榎本武揚は当時の皇帝アレクサンドル2世の勅許を得ていたので、馬車の行く先々にきちんと皇帝の命令が到達しており馬を取り換えてくれる。そのため西から東の端まで、大変な旅だが2カ月で行けた。もっとも猛烈な埃と揺れ、ノミ南京虫で往生したと書いてあるが。一方福島安正は1年1カ月かけて、途中で中央アジアにも寄り道している。伝記は出版されているが福島の報告書は未だに手に取って読むことができない。
 このように19世紀末までは日本がロシアに対する知識を深めていった時期とも言える。しかし朝鮮半島の権益をめぐって日ロが対立することによって、ついに日露戦争が起こるが、たかをくくっていたロシアがまさかの敗北を喫することになる。
 ところが負けたあとに線が右肩上がりになっているのは、ロシアも襟を正して、日本と本格的にお付き合いをしなければならないと思ったロシア人が沢山いたことがひとつ、それに当時アメリカが満州の権益に非常に強い関心を持っていて、日ロで手を組んでアメリカの参入を防ごうと、1913年の第1次大戦の開戦までだが、日ロ間は大変仲が良かった。この時代はロシアの有名な作家や知識人も日本に来ている。
 シベリア鉄道は1904年、日露戦争の真っ最中に、最後の一番難関だったバイカル湖の南の線路が開通した。当時でモスクワからウラジオストックまで約2週間かかったと思うが、それでも南回りの船で来るよりはるかに短い日数で来られるようになった。そういうこともあって、ヨーロッパへ留学する日本人もシベリア鉄道を利用する。あるいはロシアの知識人も日本に来るようになり、盛んに人の行き来があった時期である。
 160年間日本とロシアの関係は低調であったが、それでも本当に仲良くなれるチャンスが2回あった。その1回目が日露戦争のあとの時期だが、残念ながら第1次世界大戦で中断してしまう。それから2回目が現在である。ソ連が崩壊してロシアに生まれ変わり、我々がロシアへ行くのも、あるいはロシア人が日本に来るのも、別に誰かが強制するわけでも禁止するわけでもない。行きたい人は行けるし勉強したい人は勉強できるという、普通の国家関係に戻った。この2回目のチャンスはぜひ生かしたい、腰折れさせたくないという気持ちは日ロの多くの人が共有するところであると思う。
 さらに、日ロ・日ソ関係で挙げておきたいのは、1956年の日ソ共同宣言で国交を回復したときの首相の鳩山一郎である。それから土光敏夫の名前がある。1974年にバクー(アゼルバイジャン)に東芝が一体型、窓型タイプのエアコンのプラントを作った。その完成式に土光氏が行き、工場が始動する初日に表門玄関に立ち出勤する数百人のソ連人職員1人1人の手を握って、「よろしくお願いします」と頭を下げて、ソ連の指導者を感銘させたという逸話もある。こういう方々の努力があって、日ソ間の貿易は途絶えることがなかった。その事業を私どもは今引き継いでいるわけである。
 折れ線が出たり入ったりしているが、1956年になって少し上がっている。これはいわゆるガガーリンブームである。ガガーリンは、宇宙飛行士として宇宙から地球を見た最初の人である。そのとき日本国内ではガガーリンブームが起きて、理系の方等ロシア語を勉強する人がずいぶん増えた。それから右のほうでまた上がっている。これはゴルバチョフの時である。ただしこのブームはあまり長続きしない。その後日本のロシア語学習者は漸減して、ようやく最近また少し上向いてきている。英語だけが外国語ではない。ロシア語もぜひ勉強してほしい。ほかのドイツ語やフランス語も同じ状況だが、特にロシア語に関して私は心からそう思っている。


4.日ロ経済関係の展望(ストレリツォフ氏の考察)
 モスクワ国際関係大学はロシアの外交官を養成する大学であるが、別に卒業したからと言って外交官にならなければならないということはない。授業の中心が、外交官が備えるべき知識を与えることを目的に設置された大学である。このモスクワ国際関係大学教授のストレリツォフ氏は日ロ関係史の専門家であり、またロシアの日本研究者が集まる日本研究者協会の会長もされており、昨年1月同大学のサイバー紀要に、日ロ経済関係の展望について小論を寄せられている。そこにはロシアが今の日ロ経済関係に寄せる期待やものの見方などが反映されている。それを1つ1つ見ながら、本当にそうなのか、ポイントによってはもう少し深く切り込んでいきたい(図表3)。

図表3 

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 最初に「日ロの経済関係は一貫して低調」。これは言うまでもないことであり、過去から現在まで一貫して、ロシアが天然資源を日本に輸出して、日本が機械設備や乗用車などをロシアに輸出するというパターンである。金額もたいしたことはない。両国は経済補完性に乏しく、生産技術上国際分業の条件が未成熟である。160年の間、屈折した歴史があるので、それぞれの国で自分にないものは相手が供給できるかといった経済補完性を追求しながら取引を進めていくということが長続きしなかったということだと思う。生産技術上国際分業の条件が未成熟というのは、ロシアがグローバルサプライチェーンの中に入っていないということである。
 次にロシアの極東部はインフラが未整備で、安い労働力もなく投資先としての魅力がないとある。広い極東部は、サハ共和国も入れてロシアの国土面積の4割以上を占めているが、人口はわずか600万人、2%強である。地域生産力もロシア全体の2%である。日本がロシア極東部にどれだけ熱い目を注いでもその意味でどうしても限界はある。
 今後のことについて、ロシアにとって日本は資源・エネルギーの輸出相手にとどまるが、輸出量の増大に期待ができると教授は指摘する。日本でも同じ意見を持っている人々がいる。石油・天然ガスが今ロシアから日本に輸入されている。天然ガスと言ってもLNGであるが、石油と合わせて現在日本の輸入量の約10%である。ストレリツォフ氏の主張では、合計で17~20%程度に伸びても構わないのではないかと言う。日本のエネルギー安全保障上から見ても、いずれその程度までは伸びるだろうと思う。
 また、エネルギー資源を産出するロシアへの日本の投資は、政治、法制、手続上の障害は大きいが、対ロ制裁の対象外であるシベリア、極東地域の開発プロジェクトが日ロの経済協力で有望であると言う。のちにこの問題に立ち返ることにしたい。
 最後に、ロシアにとって日本が長期経済協力のパートナーとなることが重要で、日ロ経済協力協定の締結が必要と言っている。あたかも同年5月のソチでの会談を見越したようなことを述べている。
 以上のストレリツォフ教授の主張からポイントをいくつか見ていきたい。

5.同氏考察への筆者の見解
5-1「日ロの経済関係は一貫して低調」
 日ロの経済関係については、日本の貿易取引全体における日ロ貿易は1.6%、ロシアの貿易取引全体における日ロは3.4%。他方で日本とアメリカ、日本と中国の貿易取引は2桁の20%近く、両国合わせて40%以上ある。それに比べるとロシアと日本の関係はそれぞれその10分の1、当然人の行き来も10分の1で、隣国として改善すべきことは異論がない。
 なぜそうなのか。先ほども示したように、160年の間仲良くなれる国際環境になかった。どちらがという責任問題は脇におくとして、そのため経済交流がうまくいかなかった。これには地勢的な理由大きい。今ロシアのGDP全体の27.6%はモスクワ市とモスクワ州が占めていて、極端に言えばそこに行かないと商売ができないことになる。モスクワ市やモスクワ州あるいは欧露部に出ていくべきということは、ロシアは何百年もの間、東部のシベリア極東地域の開発に成功しなかったということである。
 この点について少し歴史を振り返ってみよう。かつてロシアは全然大きな国ではなかった。1552年にイワン雷帝が、長年ロシアを苦しめていたモンゴル・タタールの拠点であるカザンを攻め落とした。ずいぶん苦労したがようやく東にある一番大きな異民族を征服する。その先にまだシビル汗国というトルコ系の国もあったが、カザン汗国に比べると力が全然小さい。このカザン汗国を落としたことによってあっという間にロシアの国境が東に伸びた。
 イワン雷帝は1584年に53才で亡くなるが、その少し前に、コサックのイェルマークがイワン雷帝のところにやってきて、黒テンの毛皮で貿易取引をするため東に行きたいと勅許を求めた。買ってくれるのはイギリスである。当時イギリスはロシアの唯一の貿易相手国で、イギリス人たちはノルウェーの北を回り、アルハンゲリスクの近くからほぼ3~4週間かけて川をさか上ってモスクワまでやって来る。今のサンクト・ペテルブルグあたりはスウェーデンの領土で当時のロシアはバルト海への出口を持たなかった。
 イギリス人が持ってきたのは時計、機械、火薬、鉄砲などで、買ったものは黒テンでヨーロッパの貴婦人たちが競い合って買った。これはお互いにとってたいへん有利な貿易だった。そのためにコサックたちは黒テンを取りに行ったわけである。1646年には最初のロシア人がオホーツク海に出る。この64年間に、1年に100km以上国境が東に伸びる。司馬遼太郎がシベリアのことを「柔らかい腹」と書いているが、まさにそうである。誰も抵抗しないからどんどん先へ進んでいく。
 すでに述べたようにそれまでロシアは小さな国だった。当時ロシアの一番東の端が、先ほど紹介したニジニ・ノヴゴロドである。ニジニ・ノヴゴロドへ行かれると、目の前にクレムリンがあって、クレムリンの向こう側がボルガ川である。このあたりのボルガ川の幅はかつて400mほどで国境になっていた。河の向こうはロシアではなかったのである。対岸はシベリアのタイガの一番西端に当たり、タイガが東方に延々と伸びていく空間にはロシア人ではない、フィン・ウゴル系の民族あるいはトルコ系の民族が生活していた。モスクワを中心とした小さなロシアは、250年間タタール・モンゴルの支配に苦しめられたが、イワン雷帝がそれを最終的にひっくり返した。その結果、今日のロシアという広大な領土をもつ国への道を切り拓いた。
 1552年にイワン雷帝がカザンを攻略してから今日まで560年経っている。その後征服したシベリアや極東を、その主であるロシア人はその経済的ポテンシャルを十分に引き出すことができずに今日に至っている。結局、ロシアという国のコアは欧露部に残ったままである。したがって、領土の大半はシベリア極東地域が占め、経済の大半は欧露部にある。非常にアンバランスである。そのため歴代のロシア皇帝もソ連共産党も今の大統領も、シベリア開発、極東開発をこの国の統治者の長年の夢、歴史的な課題と受け止めてきた。こういうロシアの東隣にある先進国日本とロシアの国家関係は160年間ずっと低空飛行をしてきた。欧露部までの距離感が日ロ関係の発展に水を差してきたと言っても良い。
 これを改善するには、手始めに8項目協力プランの最後にある人的交流を推進すべきである。常識的であるが、人の交流がないと相手の国のことが分からず、取引しようという気分が起きない。例えば私ども日本センターは、本来業務のほかに日ロの学生交流のお手伝いもしている。日本では今、北海道大学、東北大学、筑波大学、新潟大学、東京大学の5つの大学が、文部科学省の「大学の世界展開力強化事業」(対象国:ロシア)というプロジェクトで、学生をロシアに送り出している。また相手の大学から学生を自校に招へいしている。正直ロシアというとなかなか学生の手が挙がらないようだが、やはりそこから始めていくしかない。若い人がロシアを実見する。1年いると、学生のロシアを見る目が変わってくる。そういう若い人が成長して、日ロ関係のプレイヤーとなるためには10年はかかると思う。
 こうした将来を見越した事業のほか、できるだけ多くの日本企業の方がロシアに来て、ロシアのメーカーではどんなものを作っているのか見てもらうことが欠かせないと思う。
 3年前に新潟、埼玉、東京で機械の部品を作る日本の中小企業の経営者の方12人ほどにロシアに来ていただいた。宇宙ロケットの躯体を作っているサマーラ市に行って現地の企業を見てもらった。ロケットを作っているところはさすがに入れてくれなかったが、その周辺の機械部品の製造業を見て、大変参考になったという。どこが問題か、何をしているか、どういう人がどういう体制で行っているか、専門家同士はすぐわかる。
 仕事に結びつくまでには時間がかかるかもしれないが、日本の多くの企業関係者にロシアの企業を見てもらうことが有益である。今ロシア政府は、ロシア政府自身が資金調達して海外のビジネスマンをロシアに招へいするプログラムがある。訪ロ研修といって、だいたい夏から秋にかけて1週間程度、ロシアの特定の地域にロシア政府が外国のビジネスマンを呼んでいる。現地までの往復の航空運賃は参加者が持つが、現地に着いてから1週間のホテル代と日当はロシア側が出す。あらかじめこういうところが見たい、こういうところと話がしたいという希望を出しておくと、事前に全部アレンジしてくれるから非常にありがたい。今まで30人以上の日本人が参加されたが、とても勉強になったと好評である。
 この訪ロ研修は私どものサイトにも案内が出ている。今年はハバロフスクで10月1-8日に行う。ロシアの市場や企業の現況にご関心のある方にはお薦めである。ロシアが遠いと言ってもヨーロッパよりは近い。それを身をもって体験していただく意味は大きい。

5-2「経済補完性に乏しい」
 40年間日ソ・日ロ経済貿易関係の仕事をやってきて、まだこの程度かと思うときもあるが、やはりどこかに深い原因がある。私はソ連という国に深刻な要因があったと思う。国際的に孤立していたソ連が、1945年に戦争が終わったときに突然支配領域を広げた。それまでのソ連はモンゴルという同盟国が一か国あったのみであったが、戦争が終わってから力ずくで東ヨーロッパを勢力圏に治め、コメコンという経済協力組織を作った。しかしソ連の経済の基本は自給自足であった。自国の中で必要なものは何もかも全部作っていたか、作ろうとしていた。
 当時ソ連も決して貧しい国ではないから、テレビはもっと安くていいものを日本から買ったらどうかと言ってもあの国は頑として聞かなかった。テレビも、白物の冷蔵庫や洗濯機も全部ソ連国産。社会主義経済で作れないものはないの一点張りであった。
 戦後ポーランドやハンガリーなどを含む社会主義的経済圏、いわゆるコメコンができた。ソ連では「イカルス」という大型バスが走っていたが、あれはハンガリーで作っていた。ソ連国内ではあのような大型バスは作らなかった。それでも例えばイカルスの部品の一部をソ連で作ってハンガリーに持っていって組み立てることなどもしない。ハンガリー1国の中で全部作らせるので、国際分業と称しながら今のサプライチェーンとは似ても似つかない体制だった。
 これがソ連流経済交流の出発点なので、経済の相互補完性と言っても、お互いの懐に入るような発想とは縁遠かった。東西対立の構図が少し和らいだ1970年代でも日ロが日米関係のような密接な経済関係になれるなど誰も考えなかった。我々は社会主義経済、少し足りないものは買うかもしれないが、それは極めて例外的なことと言われた。
 その結果、ソ連を継承したロシアは初めからグローバリゼーションに乗り遅れていた。ヒト、カネ、モノで見ると、ヒトとカネは簡単だからあっという間にグローバリゼーションの波に乗ってしまった。ヒトは今簡単にどんどん海外に出ている。最後にグラフを示すが、最近またロシアを出国する人が増えている。年間に30~40万人程度、若い優秀な人材がロシアから出ていっている。グローバリゼーションの悪いほうの影響をロシアは被ってしまっている。カネはと言うと、キャピタル・フライトである。2000年に入ってからロシア経済が好調になってキャピタル・フライトが益々はびこった。年間平均で500億ドルほど出ていった。これもグローバリゼーションのせいである。
 その一方でモノはどうかと言うと、ロシアがWTOに加盟してから海外の消費物資が奔流のようになだれ込むようになった。その一方で他国との経済補完性、特にモノづくりの世界でそれがなかなか成り立たない。やはりそう簡単に、明日肩を組んで一緒にモノを作ろうなどということはできるわけがない。未だに国際的なサプライチェーンの中に組み込まれていない。これが今のロシアを苦しめている。
 日本の自動車メーカーが今ロシアに進出して、ロシアのメーカーから部品を調達しようとするが、品質も納期も価格も合格しない。いいものを作らせようと思うと時間もコストもかかる。宇宙ロケットを飛ばしているのだから、自動車のパーツなど簡単に作れるはずだが、コスト高や大量生産させると不良率が高いということもあり、なかなか使えない。
 海外メーカーをロシアに引っ張ってきて、ロシアで組み立てた製品をロシアから外国に出そうというのもまだ軌道に乗らない。ボーイング社が飛行機のチタン製機体をエカテリンブルグで作っているのが顕著な例という程度である。
 そういうところから日ロ経済の相互補完性については、モスクワ大学経済学部長のアウザン教授の言う「資源・エネルギー」に立ち返らざるを得ない。日ロ経済は常識的なようだがやはり過去を継承せざるを得ないということだ。我々が8項目プランと言われている仕事に取り組んでいるのは、これから日ロがお互いにこまめに経済補完性を探っていこうという出発点に立ち返ったとも言える。

5-3「シベリア、極東の開発プロジェクト」
 ストレリツォフ氏が言っている政治、法制、手続き上の障害だがそれはいつの時代にもどこの国でもある。ロシアの場合、その他にも大きな「自然の」障害があって、「来たり、見たり、勝ちたり(カエサル)」のようなわけにはいかない。
 またイワン雷帝の話に戻るが、ロシアは「未完の帝国」とも言える。ロシアは一挙に東に領土を広げたが、自分の領土にした極東地域に発達した経済を作るためには何かが足りなかった。ひょっとしたら欧露部と極東部で、アメリカの東海岸と西海岸のように、大陸の両側に2つの経済の拠点ができたかもしれないのに、結局実現できなかった。
 100年前のロシアが日露戦争の勝利にかけた理由がそこにあると思う。日露戦争で、ひょっとしてロシアが日本に勝っていたらどうなるか。朝鮮半島がロシアの影響下になる。彼らにとって必要だったのは、不凍港だけではなく安い大量の労働資源であった。人口が稠密で安い労働力がある朝鮮半島はロシアにとって魅力であった。仮にロシアが勝っていれば、1930年代以降、朝鮮半島がロシアの極東開発の拠点として、経済発展の基軸になっていたかもしれない。朝鮮半島の人々にとっては迷惑千万な話には違いないが、そういう歴史的視点を持って、今のロシア極東の経済の在り様を見ておくのも意味がある。(1945年9月2日戦艦ミズーリ号甲板で日本は降伏文書に調印した。この日スターリンはソ連国民への放送でソ連の対日戦争参戦の意義を日露戦争のロシアの不名誉な敗北から説いているのは偶然ではないと思う。)
 だから私がここでいう「未完の帝国」とはそういう意味である。日露戦争で負けたことによって、ロシアの極東への「邁進」は頓挫し、その後ロシアの関心はバルカン半島に移った。ロシア極東が今必要としているのは、開発に必要なモノ、カネ、そして特にヒトである。ストレリツォフ教授もそのことを言っている。極東開発省という新しいミニストリーが連邦政府にできている。その傘下にいくつか組織があって「極東人的資源開発エージェンシー」という官庁組織の機関がある。要するに極東の人口が減らないように、それから極東に必要な技術力を持った若い人を欧露部から引っ張ってくる。そういう仕事を行うエージェンシーである。極東に何が必要かは彼らもよくわかっている。
 しかしそう簡単に、モスクワで生活をしている若者が突然極東に行くなどとは考えにくい。例えば日本語を勉強している学生はおしなべて優秀である。モスクワ大学のアジア・アフリカ諸国大学という単科大学はロシアの日本語教育のトップクラスで、先生も非常に厳しく宿題もたくさん出る。学生はハングリー精神旺盛で優秀である。それで例えば学生に卒業後の進路として提案してみる。モスクワの東1,000㎞ほどのところにトリヤッチという企業城下町があり、日産ルノーグループが買収した小型乗用車を製造するAvtoVAZという企業がある。この地域にいくつか日本語を使う仕事がある。日本の部品メーカーが出ていって、日本語が使えるスタッフが欲しいと言う。行ってみないかと聞くと、十中八九「嫌です。都落ちはしない」と言う。ぜいたくというと酷であるが、首都圏と地方の生活環境が全然違う、たかだか1,000㎞くらいの距離であるが、地域間の格差が大きい。モスクワで育った人にとって地方での生活はたしかに大変かもしれない。そういうこともあって、極東、ハバロフスク、ウラジオストクで一旗揚げるといっても、ロシア人自身が行かないのだから、外国人に来いといっても簡単にはいかない。それに未だに極東のロシア人人口が欧露部に流れている。極東は余程人材確保に注力しないと経済開発に成功はない。


5-4 シベリア極東の開発
 他の道はいくつかあるが、1つはConcession方式で事業委託をする。例えばここからここまでの100km2は100年間A社に貸し与えるから自由にやらせて、その代わり上がりの何割かはロシア政府に納めさせるということをしなければならない。過去の実例としてサハリン島の北部にオハ石油がある。サハリンでは現在海上で採油しているが、かつて陸上でわりと上質な石油が取れた。1925年に国交が樹立してから1941年日ソ不可侵条約が結ばれたあと、協定によって採掘権をソ連に返還するわけだが、17~18年のわずかな期間、オハで日本の資本が一生懸命石油を掘って日本本土に運んでいた、という経験もある。直近の事例ではサハリン石油がある。設立当初ロシア企業は入っていなかった。やろうと思えばできないことはない。
 ただしこのオハ石油も、ソ連政府が必要な資材の通関を延ばすなど操業にいろいろ文句をつける。サハリン石油も途中で「ロスネフチ」社が参加した。ロシアやソ連はConcession、つまり自分の体の一部を切り取って他人に預けることが非常に苦手である。ソ連74年の孤立の歴史がそれを強く育んだと思う。やはりロシアは、気持ちの上でこれを乗り越えていかないと、極東、シベリア、特に極東の開発は進まないと思う。
 また、国債発行など積極的な財政手段の活用をなかなかしない。今ロシアのマクロ経済はながらく低迷している。しかし大手企業、国営企業の預金残高はドル建てで非常に積み上がっている。それはなぜかと言うと、先ほどキャピタル・フライトが毎年500億ドルほどあると申し上げたが、ここ2年ほど中央銀行のナビウリナ総裁が、ロシアの外為取引を行っている銀行各行すべてに中央銀行職員をはりつけて、海外送金を全部チェックする。そのために2016年のキャピタル・フライト、と言ってもほとんどが外債の償還だが、170億ドルまで減った。ということは330億ドルがロシア国内にドルで貯まっているわけである。それだけ民間の資金も余剰気味であり、それをうまく使えば経済刺激の政策を組むことはできるし、極東への大型投資も可能であるがそれをしない。いかにも健全財政で、入った分、貯蓄した分しか使わない。これにも発想転換が求められている。
 そんなこともあり、シベリア極東の開発プロジェクトは、日本も含めた海外の資本に思いきった事業委託を行っていくことが、これからのロシア政府の検討課題になるし、おそらくそれ以外にあり得ないと私は思う。この大きな国の東部の底上げをするためには、外国の経済力を使ってそれを行う必要があると思う。
 ここで1ヘクタール運動というものを紹介したい。ロシア国民だと、希望するとウラジオストク近辺、沿海地方に、ただで1ヘクタールがもらえる。ただし、もらってから3年の間に何かしなければいけない。多数手が挙がって皆登録しているが、そのうち何もしないでペンペン草が生えるところもたくさん出てくると思う。これもConcessionの1つだと思う。でも中途半端というか、沿海地方の気候だと、そこで事業、農業をしようと思えば1ヘクタールでは生活できない。最低10ヘクタールは必要である。それがわかっているのに1ヘクタールしか渡さない。外資だけでなく自国民に対しても腰が引けている。日本ができることはロシア側の背中を押してConcessionという事業委託方式で日本が出ていくような素地づくりのお手伝いをしていくことかと私は思う。

6.ロシア経済の現状
 ロシア経済は今低迷している。ソ連が崩壊してから今が4回目の危機だと言うと、今回は危機ではない、単なる景気循環の下降局面、停滞局面だと言う専門家もいる。経済危機は過去4回あった。最初はソ連が崩壊して経済規模が半分になってしまった。それから国債が1998年にデフォルトした。2008年にリーマンショックでまた落ちて、今回が4回目である。
 ただ、落ち込みの程度は過去3回に比べるとそう深くはないので、経済危機ではないかもしれないが、落ち込みの期間が長い。昨年8月にようやく少し上向いたが、それまで22カ月間、一貫してロシア国民の実質所得が下がった。かつてない長い経済停滞である。それを指してスタグネーションという言葉を使う人もいるが、今日はその点は触れずに置いておく。
 以前モスクワにあるガイダール基金のドブルシェフスキー氏に話を聞く機会があったが、ロシア経済は底を打ったと、明るい顔をして言っていた。昨年、工業生産指数が上向いたとか、投資の下落が停止した、輸出量が増加した、GDPの下落傾向が止まって今年は+1.0~1.5に行くだろうと。ただし1.0%や1.5%は誤差の範囲であることは忘れていけない。それからルーブルの為替レートが石油価格に直接連動しなくなった。それはその後の為替市場を見てもどうかと思うが。それから対ロ制裁のあるなしに関係なくロシア経済は動いていると述べていた。
 結局天然資源に恵まれて、地域的な偏りがあるにせよ人的資源もあって、今の瞬間風速から言うと国にはまだお金があるし、民間企業にもお金があって、それを上手に使っていけば良いにもかかわらず、良い発想が生まれない。もっと積極的にやれば良い。決して普通の貧乏な国ではない。
 今のロシア経済は、大型ベンツが時速10kmで走っているようなものだと私は思う。ただアクセルを踏んだらすぐスピードが出るかと言うと、そんな簡単なことではない。ベンツそのものが錆びついているかもしれない。今のロシア経済が持っているポテンシャリティを十分生かしきれていない。
 現在、連邦政府は2つ使える金を持っている。1つは「連邦準備金」、もう1つは「国民福祉基金」である。「国民福祉基金」は目的資金で、あちこちに投資しており、そう簡単に使えるものではないが、それはそれでまだ将来に使える資金である。「連邦準備金」は流動性の高い資金で、赤字財政の補填で大分使い果たしている。しかしこれに加えて国内の資金市場に余裕があるのだとすれば、国債を発行し、それで資金を集めて、まず年金と国家公務員の給与を引き上げることによって低所得者層の購買意欲を高め、彼らが買う国産品の市場を少し広めることが重要ではないかというのが、改革派経済学者の総意である。誰が考えてもわかるが、それがなかなか通らない。
 改革派経済学者たちは、クレムリンの中の経済学者は元のゴスプラン(ソ連時代の「国家計画委員会」)を再現しようとしていると言っている。ボタンを押すと経済がすぐ動き出すというファンタジーを持った経済学者がまだクレムリンにはいるのではないかとも言う。そういう経済学者同士の対立もあるし、クレムリンも2018年の大統領選を前にして、プーチン大統領は舵切りを取りかねて迷っているところもある。しかし無駄やのりしろが多くても倒産はしない国なので、まだもつと思うがいかにももったいない。
 結局地下資源に恵まれたこれだけ大きな国のGDPが世界12位で、韓国を下回っている。もちろんGDPというのはあくまでもフローで、地下に眠っている資源などは評価に出てこない。間接的には出てくるとしても、GDPはあくまでも動いている経済で、それでも韓国を下回っている。このままでは経済的に中進国から抜け出ることができない。
 プーチン大統領やその前のメドベージェフ大統領の時代から、資源依存経済からの脱却を標榜してきたが、実現できていない。今の経済政策ではできるかどうかもわからない。
 これからはやることがたくさんある。ただし2017年は、大統領選を前にして、プーチン大統領は積極的な経済政策はなかなかとれないだろうと言う意見は紹介した。しかし、その間にも経済は自分の法則で動く。例えばわずかプラス1%のGDP成長率の中身を見ると、産業分野によってプラスに振れる分野とマイナスに振れる分野がはっきり分かれていて結構ドラマチックである。総合的にプラスになった大きな牽引要因は何かと言うと、やはり石油・天然ガスの輸出である。それからその次は日本で言うリフォーム業者のような自営業者がものすごく増えている。それから3番目に農業がプラスになった。商業や建築は軒並みマイナスである。資源依存経済からの脱却などとんでもない。後戻りの構図ではないか。
 何がいいかは議論すれば長くなるが、やはり国民の可処分所得が矮小なのが根本的な問題である。そのためには国内市場を大きくすることが重要であるが非常に国内市場が薄い。海外に石油を輸出して、そこから入った上がりで海外から贅沢品を買ったり(モスクワには高級乗用車が溢れている)、海外旅行をする。こんなことをしているから国内の製造業に需要が生まれない。国内に働ける人がいるのに働いていない。国内にいる就業可能人口の職能性が低い。起業しようというアントレプレナーシップが低い。融資ができない。これが反対に回り始めると中国のように国内の市場が拡大して、足腰の強い経済になると思う。それをするためには、今のプーチン大統領の行っている経済政策をかなり右のほうに切り替えなければならない。経済政策上勇断が求められる問題である。
 改革派経済学者の重鎮であるヤシン教授の教え子には中銀ナビウリナ総裁や今のロシア政府のトップ官僚がたくさんいる。4~5年前にこのヤシン氏に、プーチン大統領の時代に経済政策の大きな舵切りがあるかと聞くと、そんなことはあり得ない、あの人はそんなことはしないと断言されていた。残念ながらクドリン元財務大臣がやろうとしていることを支えていく、推進していく力は、ロシア社会ではまだ小さいように見える。
 おそらくロシア社会が資源依存経済から脱却して、国内市場をもっと分厚くしていくためには国民所得の再分配の仕組みに取り組まざるを得ないだろう。制度改革を推進し、個人企業主を育成する。そういう意味では、今述べたリフォームなどの自営業者が増えているのは経済全体から見れば大きなマスにはならないが、面白い現象である。1991年にソ連が崩壊したとき、今まで国から借りていたアパートがタダ同然で払い下げになった。今は8割以上が私有、自分の住宅である。自分の住宅ということは自分で修理しなければならない。大修繕の時期は2倍ほど過ぎてしまっているわけで、当然あちこちにかなりの傷みが出ている。
 私はモスクワに住宅を持っているが、昨年水回りの修理と台所のリフォームをお願いすると、20万円ほどかかった。修理の内容にもよるが、日本の何分の1かの費用できれいになる。作業の質も悪くない。そういう業者がモスクワを中心にたくさん出てきている。こういう自営業者が多数生まれつつあるのはとりあえず歓迎すべきことである。
ロシアのインフレ率だが、私が若い頃は日本もまだインフレ経済で、年8%などと言った数字が当たり前の時代だった。しかしデフレの時代が長く続いていてインフレが何たるか知らない若い人が増えている。ところが2015年のロシアは15.6%とすごいインフレだった。ようやく去年は5.6%、今年は4%台に劇的に下がりつつある(図表4)。ナビウリナ女史が「中央銀行の総裁としてインフレ4%以内に抑える」と宣言し、一生懸命やっている。しかしロシアだけではなくどこの国でもそうだが、インフレ退治は経済の首を締めることに他ならない。つまり通貨供給量を減らす、公定歩合を下げない。経済、ビジネスにとって一時的につらいことをしないとインフレは収まらない。ビジネスマンはみんな怨嗟の声をあげている。

図表4 ロシアのインフレ率
 inflation

 

 統計はどこの国でも「魔物」だから、実際の値がどのあたりにあるのか統計を信用しないロシア人も多い。ついでだが、アメリカの経済学会で連邦準備制度議長が関わった議論のときに言われたことで、アメリカのような大きな経済でも、日本もロシアもそうであるが、2%という数字は経済統計の世界では誤差の範囲である。2%上げる、あるいは2%下げるというのは、こんなものは経済政策ではないという。政策担当者としては、その倍くらいの数値、少なくとも4%くらいの数字を動かさないと、その人の成果にならない。ナビウリナ総裁が4%という数値を挙げた理由はそこにしかないとうがった見方をする経済学者がいた。彼女の努力がロシアの経済にとっていいことなのかどうかは今後の経済の動向を見ないとわからない。
 
7.日ロ経済関係の展望
 最後に、ロシア経済にとっての日本ということを見てみたい。ロシアには今日紹介した自給自足的経済観の名残りとして、他者に依存することに対して強い警戒感がある。そのためロシア経済というのは他国経済との相互補完性が低い。それでいて石油・天然ガスの国際市場に深く依存しており大きなジレンマを抱えているのはご承知の通りである。したがって日本との経済関係で何を期待するか、行政関係者の誰に聞いても、こちらとそちらが組んで一緒にコツコツとモノを作りましょうという話がなかなか出てこない。あそこに1億ドル投資してくれといった話が多く巨大志向は相変わらずである。
 モノづくりの優れた伝統のある日本にとってロシア経済の魅力がなかなか見いだせないといったところである。ただしうまくいっている進出例もあり、上手に利益を挙げている日系企業もある。そこはやはりロシア経済の仕組みをしっかりつかんでおく必要があると思う。
 1年ほど前にアウザン教授に聞いた「ロシアの未来」というおもしろい話がある。ロシアは非常に今難しい状況にあるが、3つ生き延びていくつてがあるという。一つは「資源・エネルギー」。今この瞬間はこれに頼るしか仕方がない、資源・エネルギーを売りながら生きていく。二番目は、ロシアという国が非常に広大なので、「西と東の経済の橋渡しをする」役、シベリア・ランド・ブリッジも北極海航路もそうだが、これは必ず金になると彼は言う。それから三番目には「賢人国家」。こういうことは日本人にはなかなか発想できない。ロシアというのは知的ポテンシャルが非常に高い。もっとロシアの知的ポテンシャリティを上げて、世界のイノベーションの何割かはロシアが発信地であるようにしたい。彼のイマジネーションに過ぎないと言えば確かにそうだが、有能な経済学者のビジョンとして頭の隅に置いておきたい。
 この1、2、3に沿って日本がロシアを見ると、とりあえずは資源・エネルギーをロシアからもう少し多く、いい条件で購入して、ロシア経済の自力での発展と展望を見据えながら進出していく相手国、それが我々にとってのロシアかと私は思っている。
 大切なことは、ロシアは今までのような不思議な国ではなくなった。少なくとも明日この国が右に行くか、左に行くかぐらいはだいぶ想定がつくようになってきた。それだけ日本国内の専門家も育ってきている。
 ついでであるが今足りないのは日ロ通訳である。人の交流が増え、査証の発給を相互に簡素化する協定ができた。2017年1月1日から、ロシア人が日本に行くのがさらに簡単になった。1月の集計で言うと、前年度比で56%査証発給量が増えたらしい。したがって今年は、おそらく去年の倍以上のロシア人が日本に来ると思う。これはたいへんいいことだと思う。当たり前の話だが、そうしてお互いがお互いを見ることが大切である。そういう中で日ロ通訳が足りない。通訳の育成は急いでやらなければならないことである。
 
(本稿で述べられている見解は筆者個人のものでありいかなる公的団体の立場を代表するものではありません)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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